「子どものやることにダメなんかない」という母親の肯定視が、自在な思考の土台をつくる。

・・・そして世界そのものはかつて仏教の歴史において存在しなかった強い全面肯定の感情で、ほぼ全面的に受け入れらるのである。

空海は縄文である2~密教の本質は徹底した現実肯定にある」
リンク
より

禅宗や浄土宗、キリスト教イスラム教が、現実否定視を土台に、正邪を切り分ける男性的な性格の宗教であるのに対し、密教は、徹底した現実肯定視を土台にしている。

もっと身近な世界で、肯定視の世界観を思考の土台に据えるのは、母親の子供への全面的な肯定視ではないだろうか?

あそびのもりONLINE
リンク
より引用

全国から授業視察が後を絶たず、ドキュメンタリー番組でも紹介されるなどカリスマ数学教師として注目されている井本陽久さん。子育て中の多くの人に知ってもらいたい「子どもたちのありのままを認める」とはどのようなことなのか、お話を聞きました。

●子どものやることにダメなんかないだから、ありのままを認められる
僕は幼い頃、気になったら試さずにはいられない、いつもひっきりなしに動いている子どもでした。自分の思うがままに遊んでいたし、「これやっちゃダメ!」なことを、とことんやっていました。道路の側道にあるドブの中を歩くとか、電車のホームの端からおしっこをするとか…。それらは、僕の中では“サービスの一環”。まわりの人たちを驚かせたかったのです。みんながやらないことに価値を感じていました。もしその頃の自分が目の前にいたら、僕でも怒ってしまうかもしれません。
そんな自他共に認める「悪ガキ」でしたから、家に苦情の電話がかかってきたり、学校から呼び出されることもしばしば。母はまるで日課のようにいつも僕をつれてどこかへ謝りに出かけていました。ただ、僕自身が母から怒られた記憶は一切ありません。これをやったらいけないとか、こんなことはダメだなんて言われたことがなかったのです。
なんでも自由にやらせてくれる母から、僕は安心感と愛情をたっぷりもらいました。
母に会うたびに、その頃の話を尋ねます。「いろいろいたずらやってたじゃない? でもなぜ“ダメだよ”って言わなかったの?」。すると母は決まって「子どもってそういうものだと思っていたから」と答えます。
僕の教育観は、間違いなく母の「子どものやることにダメなんかない」という考え方に強く影響されていると思います。

●思考の土台は あそびの中でしか育たない
指導していて思うのは、僕たち教師が子どもの能力を伸ばすことはできないということです。教師が関わって伸ばせるのは、その子が伸びていく中の一要素でしかありません。学力が伸びるか伸びないか、その決定的な要因に「思考の土台」があると感じています。
何かの問題に取り組んで、問題を解く見通しがぱっと閃く力のある子は「思考の土台」を持っています。この土台が中学校で伸びることはありません。その年齢ではもう変化しないのです。
では、その土台を作っているものは何か。それは幼い頃から体験してきた「あそび」だと思います。例えば、ペットボトルのキャップをずっと開けたり閉めたりしている子がいます。
運動機能的なことで言えば、指や手首を使ってキャップを「回す」という作業です。同時に触覚は、「固い」という感覚をつかみます。さらに、さっきと同じように回していてもうまく回せない場合もあって、子どもは試行錯誤します。いろんな側面から繰り返して学んでいるのです。
大人から見れば意味がないように見える行動でも、それに没頭することで子どもたちはいろんな「種」を、体全体で身につけているのです。

●子どもが本来持っている輝きが見えれば子どもを見る目も変わる
先日、幼稚園の子どもたちが遊んでいる光景を見かけました。なかでも僕が注目したのが、水たまりの中に両手を突っ込んでいた子どもです。きっと水に手を入れた瞬間は「ヒヤッ」としたでしょう。土の奥のぬるぬるとした触感だったり、水が腕をつたうことで重力や摩擦を、具体的に体験していたかもしれません。
こうして子どもたちは日々の生活の中で、たくさんの「具体」を体験し、速さや重力などのルールや法則を見出していきます。例えば小学校で習う「速さ×時間=距離」の関係も、遊んできた体験の中で具体的な感覚を持っている子は、それを先生が言語化することで難なく吸収していきます。
けれど、昨今の子どもたちの勉強方法には何の躍動もありません。机に向かう勉強は、目と少しの耳を働かせているだけ。体全身で身につくわけでもなく、頭の中で記憶するだけです。勉強がつまらないものになるのも当然で、自分の考え方、感じ方で判断しない方が得だと感じるかもしれないし、こういうことひとつひとつが子どもの輝きを奪いとっていくことになる。僕は子どもたちの未来に危機感を募らせざるを得ません。

~中略~

●ダメじゃない、ダメなはずがない
僕自身は、だらしなくて片づけられない人間なのですが、だらしない自分もいいなと思っているので、だらしない子を見ても可愛くて仕方がない。子どもにダメなところなんてない、と思ってやってきましたが、最後まで許せなかったのが「ズルさ」でした。それは僕自身が自分のズルさを認めていなかったからだと思います。でも、ズルかろうがなんだろうが、ありのままのその子を認めることができたとき、僕自身が自由になれた。許せない自分からも解放されたのです。「子どもたちのことを承認する」なんて言いますが、実は、子どもたちを通して僕自身を解放させてもらっているのだと思います。
親御さんはつい、自分の子どものダメなところばかりを一生懸命見てしまうかもしれません。子どもは素直なので「ダメ」って言われたらそのまま受け止め、諦めてしまいます。子どもが夢中で遊んでいたり、意味のない作業に没頭している姿に注目してみてください。本来持っている輝きが見えてきます。やがて、子どもを見る目が変わり、ありのままを認められるようになるはずです。だって、子どもは「ダメなはずがない」のですから。
 
田村正道 

「こどもの考える力」ー遊びと大人の距離感ー

リンクより□

これは一言にいうことはできないけれど、
保育園で子どもたちを見ていくにあたって、

「自分でどんどん遊びを見つけて発展していく子」と
「なんとなくフラフラしている子」の存在に気づく。

(「考える」っていうことはどういう環境から身についていくのか?)
(人ってどういう風に育っていくのか?)
(その子の中の自信はどう育まれていくのか?)

わたしの純粋な子どもたちへの興味はここからきていると思う。

さて、「自ら遊びを盛んに行う子」と「なかなか見つけられない子」そうなったときに、様々なことを頭に浮かべる。

・環境がその子の発達や興味にあっているか
・その子は子どもたちの中でその発達が促されていくのか、
それとも保育者の援助があったほうがやりやすい段階か
・家庭環境はどうなっているだろう、関係性や情緒はどうだろう
などということを思い浮かべる。

まず、環境を見直す場合、
今の環境はその子の興味や関心、発達に合っているのか?

でもそれを見直しても、すぐに「遊びこむ姿」を見るとは限らない。


それはいろいろなことが組み合わさって、その子の今の映し出しているから。
その子自身の生まれ持ってきたものもあると思う、
それよりも今よりもっと幼い時に、例えば0~2歳のときにどのようにして遊んできているのか、というところだったり、
どのような家庭環境なのか、というところと大きな関係性が見える。


例えば、特に感性が豊かな1歳児の時に
感覚遊びをたくさんして、そのなかで自分でたくさん感じる経験をしている、いろいろなものを五感で味わい、
いろいろな感情を味わいながら子ども同士の関わりの中で過ごすことは大きな意味をもたらしていく。

その子どもたちが2歳児になったとき、より自己意識が高まり、他との関係性も築いてきて、自分の意志もはっきりする分、自分で遊びを見つけ集中している。

その背景には、大人が介入しすぎないことの大切さが隠されている。

その子が集中しているとき、その子は何に興味をもって、それをよく観察し、触れて、観ているのだろう、

考察していく中で、例えば
その子が絵の具のついた板をたたいている、とすれば、
「その子は何を楽しんでいるのか?」「何を感じているだろう?」と観察していく。

色の混ざり方なのか、
そのぐちゃっとした感じが手についたり離れたりする手の感覚なのか、
その音自体なのか、

その考察から、手の感覚なら、
さりげなく様々な素材のものをその子が気付きそうなところに置いてみる。

カシャカシャなる、プラスチックだったり、ぷちぷち、光る素材、堅いものやザラザラ、葉っぱや、木、さらさら、と思いつく限りのいろいろな感触だったり、音だったりが感じられるもの。

すると、気が済んだその子が素材をみつけ、ぐしゃぐしゃっと触り出したりする。
こちらは絵の具のコストも心配しすぎずに、その子の素材との遊びを見守ることもできる。

近すぎず、遠すぎない距離感。
これをオランダのピラミーデではnearnessとdistanceとあらわす。
この距離感、が子どもたちの自分でやろうとする、自発性だったり、
自分で考えて遊んでいくのにとても大切だ。


一方で、遊びが見つけられない、という場合。
それは今までどんなふうに遊んできているのか、という経験も大きい。
比較的遊び方が限られている、既存のおもちゃで遊んでいたことが多ければ、
自分で考えて遊ぶことも自然と少なくなる。

その設定の決まっている遊び方をしながらも、
自分で遊びを作ったり考えたり、ということもできることはある。
ただ自由度が少ないのはもったいない。
自由度が高いほど、自分で想像して、創造することができる。
ただ、それには段階がある。

最近は、イラストや塗り絵でも、
自分のオリジナルのアイデア、想像力を組み合わせるようなものも出てきている。

ただあるものをやる、(決められたことをやる)というところと、
そのあるものを自分でアレンジすることがしやすいものを
今までやってきているか、というところは、
その子が自分で考えて、そこからどう面白くなるか自分の中で思いついたものをクリエイトしていく中でとても大切だ。

そうして、少しずつ想像力がついていって、
ただのブロックでも、
「そんなものが作れたの?!」っていうような、
その子が好きなもので、その子のアイデア
「これがかっこいいな」っていうその子のこだわりや想いをベースとした
アウトプットすることが増えていく。

そこで
「●●を作ったんだね!」などとは言わないように気を付ける。
こどもたちの自分の言葉でそれは何かを引き出したいからだ。

よく出る言葉、「すごい!」にも気を払う。

なにがすごいのか?何に興奮したのか?明確にしないと、
時間がたつとともに、「ただ褒められたい」がゆえに、作る、と
目的と手段が逆になってしまうことも考えられるからだ。

大人を頼りがちな自信がない子だったら、
「自分一人で作ってみたんだね!」と自分で作ったらそこを認めてあげたいし、
純粋にその子の作品がかっこいい!と思ったなら
「ここの部分はなに?この色を選んだのも素敵だね」
とこだわりを聞いてみる。

それを問いかけてみたときに
「待ってました!」とばかりに目を輝かせて、その作品への言葉や思いがあふれ出す。

そうして自分から生み出したものを大切にして、誇らしくも感じられる。
自己肯定感が高まっていき、自分の自信もついていく。

 

井垣義稀

子どもの社会性が育つ!ごっこ遊びの効果

リンク


ごっこ遊び」とは、子どもが日常生活やお話の中の人や物を模倣したり、なりきったりする遊びのことを指します。「幼児期に必要な遊びは、すべてごっこ遊びの中にある」と言われるくらいに不可欠な、日々の生活の中で繰り返し行なわれる遊びです。日本の保育方針を示す最も重要な資料の一つ、保育所保育指針でも5領域のうちの2つの領域(「人間関係」と「表現」)にごっこ遊びについての記述があり、行政の認識においてもごっこ遊びが発達・発育に大変重要と捉えられていることがうかがわれます。

子どもはまず、ひとりで大人の動作や会話を模倣したり見た光景を別のものに見立てて遊んだりと、「再現遊び」「見立て遊び」というまねっこを通して何かになりきることを身につけていきます。そこから複数人でイメージを共有し状況や場面を作っていく、ごっこ遊びへと発展していくのです。
心理学者のピアジェは、ごっこ遊びを前操作期の象徴機能の発達によるものだと捉えて、「何かを別のものに見立てる遊びだ」と定義しています。象徴機能が発達すると、言語やイメージなど形のないものを扱うことにつながっていくので、ごっこ遊びは子どもの発達においてたいへん重要だと言えます。

ごっこ遊びで子どもが伸びる!社会とつながる第一歩

1歳児を過ぎると、日常生活で自分がする動作や周囲の大人がする動作を再現するようになっていきます。年齢別に確認してみましょう。


【1歳児】積み木でもしもし!再現遊びがスタート
子どもが保育園にある細長いもの(積み木など)を持って耳に当て、「もしもし」というそぶりを始めたら、それは再現遊びのスタートです。絵本の果物を食べるフリをしたり、「ねんね」と床に寝転がったりと、ある場面を「再現」するようになっていくのです。過去の経験を思い出し再現する行為を「延滞模倣」と呼びますが、これがごっこ遊びの入り口です。保育士が一緒に再現遊びを楽しんだり、相づちをうったりして受容を表すと、日常のいろんな場面で再現遊びを楽しむようになります。
日常動作の定着にもつながっていくので、子どもが再現遊びを始めたら、どんどんイメージを膨らませる声かけをしてあげるようにしましょう。


【2歳児】積み木が電車に変身!見立て遊びの発展
2歳になると、積み木を電車に見立ててガタンゴトンと音をつけて走らせたり、人形を赤ちゃんに見立ててトントンと寝かしつけたり、別の何かに見立ててイメージを表現する「見立て遊び」が始まります。自分の体を何かに見立てることもできるようになり、「鳥になってみよう」「電車に変身だ」「今度はアヒルさんだよー」というように、変身して身体を動かす遊びを楽しめるようになります。

保育士は環境の中に見立て遊びが取り入れられる準備をします。たとえば、人形やお世話のグッズを揃えたり、おままごとの食器を準備したり、何かに見立てやすいように大きさの違う箱を用意したりと室内環境を整えます。また、外遊びでも砂場でケーキを作ってみたり、縄を持っていって「水たまりだ!」とみんなで飛び込んだりするなど、見立て遊びの想像の世界を広げる声かけをしていきましょう。


【3歳児】経験がごっこ遊びに!模倣と自信を積み上げる
3歳になると、お友だちとふたり以上で模倣遊びをして遊ぶ、いわゆる「ごっこ遊び」を楽しむ姿が見られます。お店屋さんやお医者さん、おままごとなど、身近な経験が主な題材になる時期です。テレビで見たヒーローやヒロインになりきって遊ぶ子どもも出てくるでしょう。模倣の精度も上がってきて、日常生活で観察の目が養われていることがよくわかります。役割分担から自他関係を明確にして、自分についてよく認識し、自信もついていきます。

一方で、お友だちとはまだまだ「並行遊び」の時期です。同じ空間にいて一緒に遊んでいると当人たちが認識していても、実はそれぞれがひとりで遊んでいます。ごっこ遊びでも、それぞれが思っている遊びを楽しめるように、おもちゃを多めに準備したり、空間を広めにしたりするなど、物の取り合いなどが頻繁に起こりすぎないようにします。エプロンなどの小道具を準備することで、「同じ空間で遊んでいる」という意識が生まれやすく、コミュニケーションにつながっていきます。しだいに関わりあうようになってきたら、保育者が手本となったり声かけをしたりして円滑なコミュニケーションに自然に気づくように促がします。保育士の介入を通して、友だちの存在や、一緒に遊ぶ楽しさに気付き始めます。

また、ごっこ遊びの小道具を保育士と一緒に作って遊ぶことも楽しめるようになってくるのもこの時期です。


【4歳児】友だちと一緒に!イメージを形にしていくごっこ遊び
4歳ごろになると、絵本や歌などから、想像力を働かせてごっこ遊びの世界に取り入れて遊ぶことができるようになります。
また、集団でルールを守って遊ぶ「集団遊び」がこのころの大きなポイントです。言葉も発達し、友だち同士のコミュニケーションも楽しむようになるのに伴い、ごっこ遊びも発展していきます。「もうすぐ雨がふりそうだよ」「傘を持っていったらどう?」「パパ、傘どうぞ」「(傘を持って)いってきまーす!」というように、一人ひとりのイメージを受容しながらごっこ遊びのストーリーが進んで行く様子が見られます。

一方で、「私ママの役がいい!」と、役割に対して不満を漏らすなど、他の子どもとの意見の対立が起こったりしはじめます。自分たちで解決できるように見守りつつ、難しい場合は双方の言い分を聞いて介入するようにします。友だちの思いに気づき始める時期なので、それぞれの行為や思いを代弁してあげることも効果的です。

手先が器用になってくるので、さまざまな用具を使ってごっこ遊びに使うものを作ることができるようになります。保育士はダンボールや大きめのソフトブロック、画用紙など、用途に応じた材料を準備し、いろいろな技法を提案しながらごっこ遊びの世界を広げる手助けをしていきます。共通体験となるよう友だちと一緒に遊び場を設定していくことで、友だちとの遊び場について考えるようになり、空間の感覚や材料の選定の方法などを自然と身につけていきます。

 

大川剛史

子どもは遊びながら言葉を学

赤ん坊は教えられなくても、言葉を覚えていく。そもそも言葉がまったくわからないので、単語の意味や文法などを大人が教えることなどできない。子どもは「発見」「創造」「修正」というプロセスをくり返しながら、自ら言葉を獲得していく。

「発見」単語や文章の要素、「似ている」ものなどを見つける
「創造」言葉をつくったり、学んだ知識を使う
「修正」大人の言い方に合わせたり、間違いを正しながら、単語の意味を深化させる

まさに、赤ん坊は好奇心と追求心の塊で、みんな天才だ。

以下、「子どもは遊びながら言葉を学ぶ」リンクより転載
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■言葉は、誕生前から学ぶ
 私の専門は、人間の発達のプロセスとその背後にある心の働きの仕組みを明らかにする、「発達心理学」です。主な研究分野のひとつが「子どもの言葉の発達」で、子どもはどんな前提をもって生まれ、生後は言葉をどう学び、どんな環境に影響されるのかなどを実験や観察を通して研究しています。

 言葉、とくに母語は子どもにとって「教わる」ものでなく、「自分で学ぶ」もの。生きた学びそのものです。そもそも言葉がまったくわからないところから始まるので、単語の意味や文法などを大人が教えることなどできないからです。

 子どもは「発見」「創造」「修正」というプロセスをくり返しながら言葉を学びます。(左下図)実はまだお母さんのお腹にいるときから、外の音を聞き、リズムや抑揚などで大ざっぱな単語の区切りを見つけることから始めます。そして、生後6カ月ほどは聴こえてくる会話の特徴をさらに分析し、音のかたまりとして単語を切り出し、少しずつ意味づけしていきます。一般的に、物の名前(名詞)を初めに学び、続いて動詞や形容詞などを学びます。単に個々の単語の意味を学ぶだけでなく、会話に出てくる単語の位置や形などの違いからさまざまな規則性を見つけていき、そこで発見した知識を使ってさらに新しい単語を学びます。そうして、自分なりに「心の辞書」をつくっていくわけです。

 そのうち、「辞書」の単語を使ったり、新しい単語を自分でつくったりしながら、カタコトのおしゃべりをするようになります。言い間違いも多いですが、大人の言い方に合わせたり、自分で考えたりしながら修正します。そしてまた、新たな発見をし、文章をつくり…、そんなプロセスをくり返しながら、「心の辞書」を充実させていき、言葉を獲得していくのです。

■親の役割と良い関わり方
 言葉の習得には、活動や経験に結びついた働きかけも役立ちます。ただ語りかけるだけでなく、一緒に遊んだり、お散歩しながら体全体を使ったり、手触りや匂いなど五感全体で感じながら言葉に接することも有効です。このとき、たとえば、イラストなら最初は線画や色数も少ないシンプルなものから始め、発達に合わせて徐々に複雑でカラフルなものにしていくといいでしょう。

 最近はデジタル機器を使って子どもの脳を刺激し活性化させることが知的発達などに効果があると注目されていますが、脳の一部の活動が一時的に増加することが子どもの発達に本当によい結果をもたらすのかはまだわかっていないので、注意が必要です。過剰な刺激は脳を興奮状態にさせ、かえって子どもの知性や感情の発達にネガティブに働くことも十分考えられます。

 そもそも教育効果は長期的なスパンでしか測れないもの。一時的な脳の活性よりは、長い目で注意深く子どもの発達を観察してほしいです。すぐに結果を求めるのでなく、その子の10年後、20年後をイメージして焦らず、それぞれの発達段階にあった環境をつくってあげることが大切です。

■言葉の学びを助けるあそび
 子どもの言語の発達にはあそびが果たす役割はひじょうに大きいものです。あそびを通じて、子どもは主体的にさまざまなことを学ぶことができます。たとえば、ごっこ遊びや絵本の読み聞かせには、言葉のやりとりがたくさん含まれています。これらのあそびを通じて子どもはいろいろな言葉を見つけ学び、コミュニケーション力や自ら考える力も育っていきます。 もうひとつ、あそびを通じて子どもに得てほしいのは、「挑戦するマインドセット」です。パズルを解いたりブロックをイメージ通りに組み立てるのは、最初は難しいかもしれません。でも、子どもが自力で完成できるように親が少しずつヒントを与えながら助けてあげましょう。

 失敗したり、上手くいかなくて癇癪を起こしたりしたときは無理に続けさせるのでなく、「やればできる」と子どもが達成感を得られるような適切なレベルを見極め、調整してあげましょう。あそびのときに語りかける内容や与える遊具、読む絵本など、大人の助けによって子どもは大きく成長します。それができるようになるためには、大人自身も「主体的に学ぶ」ことが求められるのです。

 

 
斎藤幸雄 

中学退学「東大ありき」受験に挑んだ少年の結末

親から強制的に受験勉強を強いられると、子供にどんな影響をもたらすのでしょうか。
小学校から大学まで、子供たちは常に強制圧力に押しつぶされそうになっているのだという現実に危機感を感じます!

以下引用抜粋
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都内のホテルのロビーに現れた男性は、さわやかな笑顔であいさつをしてくれた。現在は海外赴任中だという男性は田中剛さん(仮名・20代)。一時帰国を利用して、この取材に応じてくれた。「私なんかの経験が役に立ちますかね」と言いながらも、話し始めると、次々と当時の様子を言葉にしてくれた。
九州の名家の生まれだった母の敏子さん(仮名)は、一人息子の教育に情熱を燃やしていた。「あなたはおじいちゃまと同じ東大に入るのよ」。幼い頃から口癖のように息子に話しかけていた。
「祖父は東大出身の元官僚でその後、政治家になりました。母は東大ではありませんでしたが、小学校から大学の付属校という人でした。僕を自分が歩んできたのと同じようにしたかったんだと思います」(剛さん)
まず挑まされたのが小学校のお受験。幼児教室にも通い、抽選も無事に通過したものの、結果は不合格。その後は、すぐに中学受験に向けてのレールが敷かれ始めたという。

中略

「しょせんそのレベル」。入学を決めた後も、二言目にはこう漏らし、剛さんに高校受験でリベンジするようにとたたみかけたという。一方、剛さんのほうはというと、高校受験に挑む気持ちはさらさらなかった。入学した学校は普通に過ごせば大学まで上がれる。「もうこのままでいい」。だが、母親の東大への憧れの火が消えることはなかった。
中学に入るとすぐに高校入試のための塾に通塾を開始。本郷三丁目にある進度が速いことで有名な塾に通い始めた。母親が調べてきた情報によると、その塾は中1の段階で、中3までの数学と国語を終わらせるという。
入塾してみると確かに進度が速く、スパスパと単元が終わっていった。中2からはSAPIXに入塾、週3日の通塾生活を続けていた。幼い頃から塾に通い慣れているとはいえ、入学直後からのリベンジ通塾は、まだ幼さの残る中1の少年にとってはストレスだったのか。心の悲鳴はその後、意外な形で表れることになった。
「塾が嫌になってきて、夏期講習のときなんか、母親に内緒で塾に行く途中の電気屋でテレビを見て時間を潰し、帰ったこともありました。高校野球の中継とかを見てましたよ」
好きな野球も辞めさせられて、ひたすら勉強を強いられてきた日々。だが、母親に「受験はしたくない」と伝えることなどできなかった。「言ったところで、聞いてもらえませんから……」。
やり場のない気持ちが爆発したのか、中2の後半、剛少年は思わぬ行動を起こしてしまう。握りしめた拳で同級生を殴るようになった。相手は特定の1人。数カ月にわたり、繰り返し繰り返し、何も悪くないその子の腹をパンチした。傷は服に隠れて見えないため、いじめは中3になるまで周囲に気づかれなかった。
「本当に、なんであんなことをしたのか、彼には申し訳ないことをしました。本当に申し訳なかったなって思います」(剛さん)
悪いことは、いつかはバレる。標的となった少年が風呂に入ろうと服を脱いだとき、母親がお腹のアザに気づいた。母親は学校に連絡、剛少年のこれまでの悪行が白日の下にさらされた。こうして中学3年生の10月、剛少年は自主退学となった。
それでも、母・敏子さんはまったく動じる様子はない。「こんな学校、中退できてよかったのよ」。敏子さんの口からは思わぬ言葉が出てきたという。精一杯の強がりだったのか、敏子さんはそれ以上のことは言わなかった。


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引用文献: 東洋経済ONLINE「中学退学「東大ありき」受験に挑んだ少年の結末」より

 

 
ABC豆 

農業体験は技術を教えるのではなく、芸術性を感じてもらい命を感じる事

農業体験で捉えるものって何だろう?
体験内容を考えていると、どうしても「何の体験がいいか」に意識が偏ってしまいがち。
けど、農業こそ潜在思念で捉えるものが多いはず。
何を感じてもらいたい?
未明課題であるほどわくわくしますね!
その中でこの人の表現は、独特ですが農業を表現する1つの感性だと感じます。
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【農業体験は技術を教えるのではなく、芸術性を感じてもらい命を感じる事 リンク
以下引用


農業体験は技術を教えるのではなく、芸術性を感じてもらい命を感じる事

自然農法で体感している事は少年時代に夢中でボールを追いかけて

激しい練習も試合の為に鍛える感覚で苦しさもなく失敗しても成功するまで楽しんで取り組み目標に向かう感じです。

農作業で汗を流し厳しい暑さの中で吹く心地よい風、川の音や鳥の声聴きながら。

 育てた作物を出荷する喜びは幸せで食べてくれた方々が美味しかったと言ってくれた時はサッカーで優勝した時よりも嬉しいです。

現在、私達は多くの方々と交流農業体験イベントを開催しております、

このイベントを通じてより多くの方に太陽の光を浴びて土を触る幸せな感覚と私達の育てる野菜やお米が芸術品だと知ってもらっております。

自然農法が芸術とは?

まず大人も子供も人に喜んでもらえる作品を造る事ができる!
絵を書いたり粘土で作品を造る時にしっかりとイメージする。
食べてくれた人達が美味しいと言ってくれるイメージをしっかりもって種を蒔いていくのと同じです。

命の誕生と次世代に残す種(命)の引き継ぎを知る。

正常な土と触れ合う事で精神も身体も短期間で正常に整えられる。

 生きてきて今ままで一番幸せに感じて生きる事が出来ていて1日に何度かは天国に感じます。

 11年前から手術しなければならないはずの身体も自然農法を始めてからは病院に行く事もなく快調に来ています。

 現在まで感覚的には頑張っている感覚はまったく無く、目の前の事に楽しんで努力してるだけです。

 自然農法とは涙を流し苦しむ事ではありません。

 自分の出来る範囲で無理をせずに自分や家族が喜ぶ野菜をイメージして造る事が出来るものなのです。

 造る過程も自分が自然とのインスピレーションを大切にし自分の居る場所での風土を感じながら自分の感性で動くのです。

 私達は技術を見てもらうのではなく個性を活かした芸術を見てもらう感覚なのです。

どうしても教科書や説明書など答えが用意されている技術を学ぼうとする人や教えようとする人と思われますが答えはありません。

 始めて自然農法をする人も何年も自然農法をしている人も感動も喜びも同じです。

 

三上公平 

幼児へのプログラミング教育は本当に必要? 「優れたプログラマー」に育てるために、もっと重要なこと

プログラミング教育に限らず、英語教育なども含め、幼児教育に対する関心は高いが、最も大事なのは、本人に「そうしたい」という主体性が芽生える事。そのためには、マスコミや学校が言う事ではなく、世の中の事を良く知る事が大事

リンクより引用します。

※※※引用、以上※※※

小さな子どもにプログラミングを学習させることを目的としたロボットなど、さまざまな玩具が日々開発されている。しかし文字も読めない子どもに教えるべきは、プログラミングではない。子どもを優秀なプログラマーに育てるには、いち早く教えるべき「もっと重要なこと」がある。

(中略)

メリーランド州フロリダ州の議員たちは、コンピューター言語を使うプログラミングを学べば、高校卒業に必要な外国語の条件を満たしたことになると主張している。こうしたロジックを拡大するかたちで親たちは、子どもが早くからプログラミングに触れれば、それだけ堪能に使いこなせるようになると信じるようになってきている。

プログラミングは言語ではなく“スキル”

『WIRED』US版のガジェット担当としては、この流れを肌身で感じている。わたしたちの手元には、小さな子どもにプログラミングを学習させることを目的としたデヴァイスが、かつてないほど次々と届くのだ。

(中略)

実際にこの2年間、もうすぐ5歳になる娘をこのようなおもちゃに引き込もうと試みてきた。その経験から言いたいことがある。それは「こうしたものは気にしなくていい」ということだ。

プログラミングは言語ではなく、スキルである。よちよち歩きの子どもを英語とドイツ語と「Scratch」のトリリンガルにはできない。

親が感じる不安、つまり自分の子どもにできるだけ早くからプログラミングを始めさせたいという思いは、確かに共感できる。「成功したプログラマー=パーカーを着た20歳のミリオネア」という固定観念にしばられていると、自分の子どもが5歳までにアプリをつくれなければひどい仕打ちをしてしまったと悩むことになるだろう。

(中略)

プログラミング言語自然言語の違い

自然言語は単に事実を述べるだけではない。世界や人間の感情、欲望をいかに理解しているか、そしてわたしたちがどのようにして自らを人間とみなしているかを表現するものでもある。

「そのボールを投げてはいけない」と幼児に伝えるとき、社会の一員になることに関して、数え切れないほどのことを教えている。つまり、その言葉は単なる動詞の命令形ではない。人の顔に向かってボールを投げてはいけないこと、その腕の動かし方だとボールが速く飛んでしまうということ、あるいは大きなトラブルに巻き込まれそうなときに聞こえる声がどんなものなのか、といったことを教えているのだ。

コンピューターのコードはそんなふうに機能しない。幼児に向かって「C++」でコマンドを出せば適切なアウトプットが出てくる、なんてことはありえない。

(中略)

ソフトウェア開発者のジェフ・アトウッドは、大きな影響力をもった2012年のブログ投稿で、このように述べている。「一部の人にとって、正しい文脈においては、プログラミングは重要なものだと思います。でもそれは、ほかの多くのスキルも同じです。わたしはもう、あらゆる人にプログラミングを習得するよう勧めるつもりはありません。あらゆる人に配管作業を身につけるよう勧めるつもりがないのと同じです」

(中略)

教えるべき「もっと重要なこと」

未就学児を優れたプログラマーに育てるためのもっとシンプルな方法がある。まずは、独立心のあるきちんとした人間になるよう導くことだ。子どもが抱いた興味を追求させて、自ら課題に取り組み、自分で解決策を考えさせるようにしよう。デイド・マーフィーがコンピューターをクラッシュさせたのは、親からそうしろと言われたからではない。“そうしたい”と思ったからだ。

そして、協力の大切さも教えよう。一匹狼のハッカーが輝かしいとされる時代は終わった。現在は多くのソフトウェア開発者が大人数のチームで働いており、そこではあらゆる人々に対する共感と敬意が求められる。子どもたちに、わたしたちはみな互いからあらゆることを学べることを伝えてほしい。そして、ひとりで生きているような振る舞いをするのではなく、自らの行動や言葉が、自分自身や他者に影響を及ぼすことを教えよう。

最後に、我慢できないほどのイライラに直面したときの忍耐力についても教えたい。あなたの子どもが、丸太の上に四角い棒を置いてバランスをとろうとしているときに見せる集中力は、何千行ものコードをスクロールして、ひとつの構文エラーを見つけることにも発揮されるかもしれない。

このようなことこそが「地球をハックする」ための方法、あるいは地球をほんの少しでもよい場所にできるかもしれない方法なのだ。

※※※引用、以上※※※

 

野崎章