プログラミングや英語教育より大切なこと

学者兼、経営者兼、アーティストとして活躍している落合陽一氏。
「多くの親が子供に検討違いの教育を与えている」という考えは大いに共感できる。

リンク

 いつの時代でも言われることですが、現在の小中学生が社会に出る頃には、現在とはまったく違う世の中が訪れているはずです。現に僕が小学生のときと現在の社会態様はインターネットを含めだいぶ変わりました。しかしながら、入試制度や選挙制度、雇用の仕組み、我々の死生観や幸福観、結婚の仕組みなど、まだ変わっていないものもあります。そしてそれらは聖域などではなく、今後最も劇的に変わっていくのではないかと考えられます。

 ところが、子供たちに将来の指針を与える立場にある親の世代が、いまコンピュータやインターネットのもたらす技術的変化や文化的変化によって具体的に何が起こるのか、それがどういう意味を持つのかを理解していません。

 そのため多くの親が、子供に見当違いの教育を与えているような気がします。
 
 もちろん親の世代も、自分たちの若い頃とは時代が変わっていること自体は認識しているでしょう。インターネットの発達でグローバル化が進んでいることや、先ほど述べたようにI T化によって利便性が高まったことは誰が見てもわかります。ですから、親の世代も自分たちが受けたのと同じ均質化され出口が約束された教育で良いと考えているわけではありません。

 たとえば、英語教育に熱心な親は大勢いるでしょう。「グローバルな社会で生きていくには、英語ぐらいできないと」と考えて、子供が小さいうちからバイリンガルになるための教育を行っています。それを求めるのは保護者ばかりではありません。学校での英語教育を求める声は財界などにも多いですし、文部科学省も小学校への英語教育の導入を進めています。

 でも、それが本当に将来のキャリアに役立つでしょうか。

たしかにグローバル化によって外国人とコミュニケーションする機会は増えましたが、コンピュータの翻訳技術もどんどん向上しています。最近は、ちょっとした仕事上のメールのやり取りなら「グーグル翻訳」で事足りるようになりました。音声の翻訳も含めて、その精度は短期間のうちに上がるでしょう。

 そういう世界で大事なのは英語力ではありません。たとえばコンピュータが翻訳しやすい論理的な言葉遣いが母語でちゃんとできること、つまりそのような母語の論理的言語能力、考えを明確に伝える能力が高いことのほうが、はるかに重要です。

 もちろん、英語の読み書きや英会話ができるに越したことはないでしょう。でも、それは今後の世界を生きていくための最優先課題ではありません。その前に身につけなければいけない別のスキルのほうが、圧倒的に多いのです。

 英語はプログラミング言語の一種だと思って、練習して使いこなせるくらいが丁度いい距離感のように僕は感じています。

 また、子供にコンピュータ・プログラミングを学ばせる親も増えました。英語教育が社会の「グローバル化」に対する過剰反応だとすれば、こちらは「IT化」を意識しているがゆえの錯覚のようなものです。たぶん、「これからはIT業界に入れば成功できる」という前提で考えているのでしょう。

 はっきり言って、子供のときから単にプログラミングが書けること自体にはあまり価値はありません。IT関係の仕事で価値があるのはシステムを作れることです。プログラミングは、自分が論理的に考えたシステムを表現するための手段にすぎません。

 ですから、「プログラミングができる」というのは、いわば「算数ができる」ぐらいの話。算数ができれば学校では良い成績が取れるでしょうが、それが何か価値を生むわけではありません。もちろんプログラミングを競うコンテストや、プログラミング言語自体の研究なども行われていることは確かですが、多くの分野にとってプログラミングは道具にすぎず、算数と同じようにツールであり、それ自体が目的化しては意味のないものになってしまいます。

 大事なのは、算数を使って何をするかということ。だからそれと同様に、プログラミングができるだけでは意味がない。それよりも重要なのは、やはり自分の考えをロジカルに説明して、ロジカルにシステムを作る能力なのです。

 

 

 

 

大森久蔵