弱さも天賦の才能

日本人の人を育てる意識とその接し方。宮大工などの職人の人材育成にも通じるこの本源的な心の在り様は、今後の学校教育や企業組織にも必要な意識だと思います。

才能とは本来、『余人を以って代えがたしもの』優劣比較は意味を成さない。

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◆弱さもギフトである

僕は今、武道家を名乗っております。自分の道場を持ち、弟子も何百人かいて、その月謝で生計を立てられるまでになりました。でも、もともと心臓に障害があって、身体が弱く、運動が苦手な子どもでした。身体が弱いのに武道家になった。なぜなれたかというと、「僕は身体が弱い」ということを「天賦の才能」だと考えるようにしたからです。

身体が弱いので、生命力を損なうような外部からの入力に耐えることができない。不快なものに対する受忍限度が一般人よりもはるかに低い。厭なことがあると、すぐに死にそうに弱り切ってしまう。だから、「不快なことを避ける」ことが人生の一大重要事となりました。他の人にとっては何でもないことでも、僕には耐えられない。ですから、「気分の悪い人間」であっても、「気分の悪い場所」であっても、「気分の悪い流れ」であっても、人より先に分かる。ここにはいてはいけない、この人と関わってはいけない、それをしてはいけない、ということがわかる。

弱いから分かるのです。他の人が我慢できることが僕には我慢できない。だから、他の人が感知しない微かなネガティブな入力にも反応してしまう。反応することができる。「厭なこと」に対する感受性が鋭い。だから、大きなトラブルに巻き込まれることがない。不快な人間関係に巻き込まれて厭な思いをするということもない。そんな関係になる遥か手前で逃げ出してしまうから。

武道的な身体の使い方においてもそうです。わずかな「こわばり」や「詰まり」や「緩み」や「ずれ」が耐え難く不快に感じられる。だから、何とかしてその不快感を緩解し、消したいと思ってあれこれ工夫する。普通の人だったら「何でもないこと」が気になって仕方がない。だから、普通の人より反応が早い。普通の人がしないような変な身体の使い方をする。

弱さもギフトなんです。ある種の、身体的な欠陥は、それによって思いがけないところに代償的な機能を生み出している。

古代ギリシャの吟遊詩人たちは多くが盲目でした。詩人として大成するために自ら眼を傷つけて失明した人さえおりました。おそらく視覚がないことと長文の詩を暗唱する能力の間にはトレードオフの関係があったのでしょう。

僕の合気道の道場に来る人たちは、身体能力は人それぞれです。でも、僕はひとりひとりがある意味で天才だと思っています。才能というのは、本質的に「余人をもっては代えがたいもの」ですから、才能を比較して、その優劣を論じるということはありえない。そのような際立った個性なわけです。だから、比較しない、格付けしない、数値化しない、競争させない。

花が育っていくみたいなものです。種子を植えて、土から芽が出てくるとき、何の花が咲くのか僕も知らない。だから、今から3週間で5センチ伸びろとか「達成目標」を掲げるわけにはゆきません。どういう花が咲くのか分からないんですから。速成なのか晩成なのか、一年草多年草かもわからない。そもそも花が咲くのかどうかもわからない。ただ、経験的に言って、だいたいの種子は陽に当てて、お水をあげて、肥料をあげていると育つということは分かっていますから、それをやる。

でも、開花するのはしばしば僕の見たことのない花です。そういう未知の花が次々と開花してゆく風景というのは見ていて大変楽しいものです。だから、やめられない。

 

 

 

 

匿名希望