「叱らない教育、ほめる教育」の是非 ~「ゆとり教育」を例に~

相手のことを思って叱る、怒ることは必要であると感じる。
そこに相手も気づいて答えていくことが成長していくことだと思う。
そのためには相手の言っていることを受け止めて、じゃあ、どうする?に転換していく。
ほめるだけでは相手に響かない。

リンク
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
叱らない教育、ほめる教育。
 叱らない家庭教育、ほめる家庭教育。
 叱らない学級経営、ほめる学級経営。

叱りすぎで、子どもが育たないという。
ほめれば、子どもが伸びるという。

「叱る」という言葉には負のイメージがある(「怒る」も同様)。一方で「ほめて伸ばす」の言葉は正のイメージである。叱ることは悪いことで、ほめることは良いことなのだろうか。この辺りについて考えてみる。

この流れは、1世代前の、ゆとり教育の流れに似ている。

A 詰め込み教育のせいで、学力偏重で生きる力のない新社会人が増えて問題だ

 B 教育内容にゆとりを持たせて(時数と内容削減)、豊かな人間を育てよう

 C 受験時の競争の激しさは以前のまま

 D 学習塾の隆盛、学力の二極化、フリーター・ニートの増加…

義務教育にゆとりを持たせても、受験とその後の社会にゆとりはありませんよということである。最終的な責任はもちませんよということである。未来のゴールのは同じなのに、現在を楽に生きましょうといっても、後がきついだけである。「うさぎとかめ」で例えるなら、努力家のはずのかめをさぼらせている状態である。勝ちようがない。

要は、学力自体が悪玉にされていたが、実は生きる力の育成不足こそが問題の根本にあったということである。教育の中で勉強をがんばらせていたことが悪いのではなくて、実社会に生きる力をつけさせなかったことが悪かったのである。だから「生きる力」へ急激な路線変更をした(内容整備の是非はともかく、これ自体は良かったと思う)。

叱るとほめる論にも、似た傾向があるように思う。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 

 

 

伊達政宗