みんな基準をこしらえる「みんな化語」1

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先日、私が帰宅のために電車に乗っていた時のことです。とある駅で20代とおぼしき女性が電車に駆け込んできました。空いている車内でなんなく座席についた彼女は、リュックからごそごそとパンを出して頬張り始めました。

乗客たちが思い思いにスマホを眺めて過ごしていた21時頃の車中。その彼女がほんのふたくちほどパンをかじった時、その緩やかな空気が一変しました。彼女の隣に座っていた70代くらいの男性が突然大声をあげたのです。

「そんなもん家で食え! 日本の恥だぞ!」

そう切って捨てるように言うと、男性はすぐに到着した次の駅でドカドカと下車してしまいました。彼女は声を出すこともできず、パンをそそくさとリュックにしまって、もうその男性が居なくなっているにも関わらず、座席で小さく丸くなっていました。

確かに電車内での食事はマナー違反だと考える人も一定数いると思います。ただ、彼女は「日本の恥」として叱責されるほどのことをしたでしょうか。少なくとも私は、混んでいない車内で、匂いもしないパンを食べた程度ではまったく気になりません。

私が思うに、「日本の恥」と言うとき、その男性は幻の"みんな"をねつ造しています。俺だけが怒っているのではなく、日本の"みんな"が怒っているのだと。彼女により強力なダメージを与えるために、そして、彼自身が日本国民の代弁者であるかのような全能感を得るために、彼は主語を"私"から"みんな"にすり替えたのです。

このように、主語を大きくするタイプの言葉というものがあります。他の例では、女性が「女はお前みたいな男が嫌いなんだよ」と言う場合、個人ではなく性別代表になってしまっています。

みんな基準をこしらえる「みんな化語」
申し遅れましたが、私は博報堂の生活総合研究所で研究員をしている内濱と申します。

私たち生活総研では、「"みんな"って誰だ?」というテーマで、「個」の時代の先にある、新しい大衆像について研究し、その成果をこの連載でご紹介しています。

第1回記事に寄せられた反響の中で特に多かったのが、「みんなやってる、ってよく言うけど、そんなの本人の思い込みじゃない?」というご意見です。実は私も、前述のような体験から全く同じ疑問を持っていたんです。

こんなに風に自分の意見を"みんな"の意見のように語る現象を、私は「みんな化語」現象と名付け、研究しています。

研究結果をお話しする前にもう一つ、私自身が体験した「みんな化語」のエピソードを紹介させてください。

家族と過ごしていた休日のことです。私は以前から好きなバンドの音楽をスマホのスピーカーから流していました。すると、今年小学1年生になったに過ぎない娘が、あろうことか「そんなダサい曲流さないでよ」と言うのです。

娘は代わりに別のバンドの曲を流して欲しいと主張し、それはそれで良い曲なのですが、私は正直ダサさに関しては五十歩百歩だとゴニョゴニョ考えたりして... 要するに私は狼狽していたわけです。

ただ後から冷静に考え直すと、「ダサい」というのも"みんな"のねつ造なのではないかと思い至りました。

「ダサい」というのは「嫌い」とは違います。「ダサい」には、世間一般で共有されているトレンド感から乖離している、というニュアンスを含みます。娘は「私はその曲は嫌い」と言う代わりに、「今のみんなのセンスには合ってない」と言ったわけです。

このタイプの「みんな化語」は、さも「みんな基準」があるかのように見せかけることで効力を発揮します。他の例では、「お前の考え方は古い」と一般的な新旧基準があるかのような言い方や、「固い職業の人の話って、つまんないじゃないですか」の「じゃないですか」のように、みんなが先刻合意済みのような印象を与える言い回しがあります。

先ほど、「みんな化語」とは、あるひとりの意見を"みんな"の意見であるように感じさせる言葉使い、と書きました。この定義はまだ暫定的なものでしかありませんが、2つのエピソードから皆さんには何となくイメージをつかんでいただけたでしょうか。

 

 

 

匿名希望