遊びの起源は神代の弔いの場で行われた歌舞だった!

遊びは本来、神事や信仰と強く結びつき、様々な意味で使われてきた。
それがいつしか遊び=悪いことのように扱われてしまっている。
何もないところから何でも工夫して遊びに変える力=工夫思考こそ、子供のうちに身に付けるべき力である。

以下、歴史と民族の博物館HP(リンク)引用
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●プロローグ 「遊び」の起源
「遊び」という語は、現存する書物の上では『古事記』の中に、神代の弔いの場で行われた歌舞をさす言葉として初めて登場します。このことから、遊びは元来は神事としての芸能を意味しており、祭りに行う歌舞を「神遊び」と呼ぶのは、そうした遊びの古い意味を受け継いだものと考えられています。
遊びは、『古事記』ではほかに漁や狩猟、『万葉集』では行楽や宴、『源氏物語』をはじめとする平安時代の文学の中では管絃や詩歌・舞などを楽しむことを意味する言葉として使われています。
このように時代によって内容は異なりますが、心楽しく時を過ごすことを全般的に「遊び」と呼ぶようになっていったものと思われます。
さらに中世になると子どもの娯楽としての遊びが絵画の中に描かれるようになり、各地の中世遺跡からは独楽・毬杖・羽子板・木トンボなど木製の玩具が出土しています。

●Ⅰ 江戸時代の玩具
江戸時代の子どもの間では、古代や中世から行われてきた遊びがさらに広まっていきます。加えて、陶磁製や土製の人形、飯事道具、泥面子などといった玩具も登場し、子どもの遊びは一層多彩なものになっていきます。こうした玩具は、各地の武士や豪商の屋敷跡や墓などからの出土品の中にも見ることができます。埼玉県内では川越市内の遺跡から、多数の玩具が出土しています。
中でも人形は信仰と結びついたものが多く、犬は子どもの守り神、天神は学業成就や習字の上達、西行は泥棒除けや腰痛除けといったように、さまざまな意味が込められていました。また、赤く塗られた人形には疱瘡除け、鳥の土笛には虫封じや食べ物がのどに詰まらないようにとの意味があったといわれています。

●Ⅱ 遊びの情景
江戸時代中期には木版多色刷りの錦絵が登場し、広く愛好されるようになります。多岐にわたるその題材の一つに「子供絵」と呼ばれるものがあり、子どもの遊ぶ姿を描いた作品が多く残されています。また、明治維新のころには子どもの遊びに擬して世相を風刺した絵も多く描かれました。
明治後期になると、新しい多色刷りの技術である石版印刷が登場します。この技術によって作られたものに、引札があります。引札は江戸時代から昭和初期にかけて商店が配布した一種の広告で、さまざまな絵柄のものが作られましたが、その中には子どもの遊ぶ姿を描いたものも見られます。
このほか、このコーナーでは子どもの遊びを描いた江戸時代の風俗図屏風や明治時代の絵馬、昭和10年代の子どもの生活を描いた渡邉武夫画「戦時生活絵暦」を展示します。

●Ⅲ 埼玉の子どもの遊び
 昭和20年代から30年代の初めにかけて埼玉新聞社によって撮影された数多くの写真が、「戦後報道写真」として県立文書館に保存されています。
これらの写真は当時の埼玉の様子を記録した貴重な資料であり、その中には子どもが遊ぶ姿を生き生きととらえたものも数多くあります。
このころの子どもの遊びは、野外の自然の中で遊ぶ「外遊び」が主流でした。子どもたちは草花を摘んで花輪を作ったり、魚や虫を捕ったり、田んぼの稲藁で遊んだり、手作りの玩具で遊んだりと、四季の移ろいを肌で感じながら自然の中で遊んでいたことが写真からうかがえます。
また、各地域では花祭り、七夕、十五夜、十日夜など子どもが参加する歳事が行われており、子どもたちの楽しみになっていました。

●エピローグ 子どもは遊びの天才
平成の子どもたちの遊びといえば、テレビゲームやネットゲームなどコンピュータを使ったものや、テレビ番組のキャラクターを使った玩具などを連想しがちです。このように、今日の子どもたちの遊びは商品化され、流行に大きく影響されているかのように見えます。しかし、「子どもは遊びの天才」と言われるように、子どもたちは何もないところからでも工夫して遊びを見つけていく力を本能的に持っているように思われます。
麻生豊画「銀座復興絵巻」は、太平洋戦争で焼け野原になった銀座が次第に復興していく様子を年を追って描いたものです。昭和21年の第2巻には、戦災でスクラップになった自動車を遊び場にする子どもの姿が描かれていますが、この場面は子どもが持っている、いつでもたくましく遊ぶ力を表現しているように感じます。そして、こうした子どもたちの遊ぶ力は、文化を創造し発展させていく力につながっているのではないでしょうか。

 

 

 

真鍋一郎