子供達が、自然(自由)に遊べる社会をつくり上げて行きたい!

私は60歳ですが、昔の当たり前は、今は非常識になっていることがなんと多いことか。私の父親は良く言っていました。体で覚えろ。頭で理解したことは屁のつっぱりにもならない。時にはケガして覚えることと同意語でした。

兄妹で振り切れんばかりの勢いでブランコをこいでいたところを父親は見て、はらはらしていたそうです。そして妹が堤防から砂浜に飛び降りて足を骨折した時に父親は、「あっ~、ついにやってしまったか」と言ったそうです。

子供にすれば自業自得で次から気を付けように意識は切り替わるわけです。妹を見て少し注意をしようと思ったことを記憶しています。

しかし、最近の保育園はモンスターペアレントがいたりして「安全」が絶対規範化しています。保母さんもストレスをため、家庭では奥さんが子育の責任を1人で背負わされてイライラしている。そのはざまの子供達はもっともしんどい環境にあるかもしれません。

そんな中で、92歳の現役保育士の話が一つの活路を示していると思ったので投稿します。NHKの朝いちでも放映されていました。以下、引用

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「危ない」「汚れる」「壊れる」から過剰に守ると、子どもが育たない理由

 92歳の現役保育士が伝えたい親子で幸せになる子育て
大川繁子:小俣幼児生活団 主任保育士
 [小俣幼児生活団 主任保育士 ]

「守る」と「育てる」の
バランスを考える

92歳の主任保育士・大川繁子さんは、子育てについて独自のポリシーを持っている

「保育」という言葉には、「保護(守ること)」と「教育(育てること)」という意味が込められています。0歳、1歳と年齢が低い子ほど「守る」の割合が大きい。成長するにつれ、「育てる」の割合が大きくなっていきます。
 ただし、何歳になっても保護の要素がなくなるわけではありません。大切な命を守るのは、絶対。取り返しのつかないケガは、絶対にさせてはいけないのです。
 難しいのが、「保護」を重視しすぎると「教育」がないがしろになってしまうことです。なにがなんでもケガひとつさせない!そうなると、「何もさせない」が正解になってしまいますから。もちろん、それはいい保育ではありません。
「じゃあ、どうやったら、保護と教育を両立できるかしら? 守りながら、大きく育てられるかしら?」
 ……それで生まれたのが、「安全のルール」を子どもたちと一緒に決めることでした。

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子どもたちと決めた
「マリアの丘」へいくときのルール
 たとえば小俣幼児生活団では、以前は「マリアの丘」と呼ばれる、園庭(山)のてっぺんのエリアへは子どもだけで行くことを禁止していました。目が届かないし、道中も整備されていないところがあって危ないと判断していたんです。でもそれは「守ること」だけ考えていて、「育てること」にはならない。子どもも行けるようにしたいね、という話になりました。
 そこで、最年長である5歳児クラスの子どもたちと保育士で、マリアの丘への道を一緒に歩きながら、1つずつルールを決めることになったのです。
「あっ、あの木は細いね。のぼったら危ないね」
「ここから先は、ハチさんが出てきそうだね」
 指さし確認しながら、地図に書き込んでいく。基本のルールも子どもたちが決めました。
・マリアの丘へは、ひとりで行かない
・マリアの丘へ行くときは、必ず先生に「いってきます」と告げる
・マリアの丘から帰ってきたら「帰りました」と言う
 そして、こうした決めたルールを15時半のおやつの後にある「さよなら集会」で発表して、全員のお約束にしました。その後、お約束を書いた地図はずっと部屋に貼っています。
先回りしすぎて
子どもの学びの機会を奪わない

 言うまでもありませんが、普段の保育では、大きな事故につながりそうな要因は徹底して取り除いています。中略
 
 正直ね、保育者としては、「すべて禁止」のほうがずーっとラクなんです。でも、あれもダメ、これもダメだと、子どももつまらないでしょう。安全について、どうやったら「守りながら育つ」が両立するか考えるのも楽しいものですよ。

引用終わり

子供を何も出来ない対象と捉えて、且つ、守る対象に比重がかかると全て大人がやってやることになる。そうなると子供は単なるわがままになるのは必然。子供達が自分達の活動エリアを拡大できるのは、今おかれている状況認識が一番大切。その縛りを解くにはどうすると大人の力を借りながら突破して行けばよい。

その先に子供達が話し合いで決める自由がある。
それは「遊び」なのだろう。もっと自然に遊べる社会をつくり上げて行きたいと思った。

 

 

 

酒井俊