江戸時代、村の娘たちの自治組織だった「娘組」について

江戸時代、村落共同体には、子供~大人まで、複層的に村落自治のための組織と役割があった。
7~15歳の男女で「子供組」、15~35歳の男性で「若者組」が構成され、それぞれ祭りの運営や火事・地震津波・風水害・海難事故・急病人の発生等非常事態への対応など、重要な役割を担った。
子供たちが村の一員として立派に成長するのに、そうした子供たちの自治組織が果たした役割は大きい。(リンク
同じように、村の12,3歳以上の娘たちの組織として「娘組」があった。その内容についてまとめてみる。


■若者組同様、娘組も共同生活で自治が基本であり、その中で一人前に成長した
 伝統的に村落共同体の若い男女が自家を離れて一定の規制のもと、集団的訓練を受ける共同の寝室を寝宿といった。
 それは、遊び宿、寝部屋とも称され、性行為や夜這いの指南などを含む、婚姻の媒介機関としての役目を担った。
 通常、男女別々に宿があったが同宿のものもあった。
 青年たちが集うのが若衆組ならば、村の娘たちの組織は「娘組」である。
 娘組は娘仲間、おなご組ともいい、共同作業したり、寝泊りしたりできる「娘宿」も存在した。
 宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、相談役人もなり、配偶者選びの助言者にもなった。宿の主婦をツボネなどといい、娘たちのよき相談係であり、監督者であった。そして、嫁入りの際は第二の母として媒酌人となったようである。


■共同で生産活動も担っていた
 夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、苧績み(布に織るために麻を細く裂いてつなぎ合わせて糸にする)や、裁縫などの針仕事を、共同で作業するなど、夜なべ仕事をする。


■若者組との交流の場でもあった
 娘宿は若い男女の交際の場であった。例えば、ムスメアソビといって、同じムラの若者たちが連れ立って娘宿を訪れ、娘たちの仕事を手伝いながら談笑した。その中で一組のカップルが自他ともに認められると、宿親が話をつけて正式な婚姻関係に発達したという。
 そうしたことは若者が何の規律もなく勝手する放恣では決してなく、仲間同士内の相互規制が働いていたようだ。

■若者組との交流も、完全に自治に任せられていた
青森県下北郡東通村尻屋における「若者連中規約」には以下のようにある。この村では、若者の下部組織として娘組が位置付けられていたようだ。
一、若者連中は一週間に一回平均なる集合に会合する事。
一、15歳以上の女を以て、「めらし組合」を組織し、これは若者連中に附属し、凡ての行動は若者連中の指揮を受くるものとす、随って保護を受くるものなり。
一、「めらし外泊」は、若者連中の許可なくして出来ざる事。
一、尚連中の若者に非ざれば、肌を接する能わざる事。
一、家族は一切娘そのものには、何も構えもせず、一切若者連中に預け、若者の自由に任せること。

■なぜ消滅したのか?
 特に明治後期から大正期にかけて、各地に青年会(青年団)や処女(しょじょ)会が発足した。これは品行方正な若者を育成することを目的とし、かつての娘組については、きわめて批判的であった。
 当時の社会で貞操観念の欠如などが問題となり、娘宿がその温床とされたからであるが、批判的な資料の例をあげてみると、いくつかある。
 1911(明治44)年、三重県志摩郡畔名村(現志摩市)処女会が郡長より表彰を受けたが、会の決議実行事業には「寝屋ニ行カサルコト」という項目が見られる(「志摩郡公報」)。また、同県越賀村でも、大正時代まで娘宿が存在したが、名古屋の新聞により貞操観念がないと非難されたことを機に、青年団長の指導でアソビヤが廃止されたという報告もある。
 さらに、18年(大正7)年、同県船越村の処女会の第17回幹部会での会長の修養講話においても、会員に寝屋に泊まらず、自宅で起臥するよう自覚を促している。
 なお、娘宿の廃止について抵抗があったことも事実で、前述した有滝ではワカヤの存廃をめぐって青年団内部が二分したが、結局は消滅していったという。


【参考】
青年団の活動で消滅-若者の男女交際の場「娘宿」
リンク

「農村・漁村にあった「寝宿」が消滅したのはなぜか」
リンク

 

(小川泰文)