ジェンダーフリー教育が子どもたちから「感謝の心」を奪っている?

男女の差を無くす教育が、子ども達の活力を奪う1つの要因になっているのではないか。①の事例も、子どもの立場に立つと、学校ではジェンダーレスだが、学校の外ではそうではない事に強く違和感を感じそう。こういった学校と外の乖離が子どもたちに苦痛を与え、②のような事例に繋がっているのではないか。また、③では男女を区別して教育することの意義が書いてあるが、読んでみるとスッキリ感が高い。男女の区別を意識した教育こそ、子どもたちの「感謝の心」を育むのではないだろうか。

リンクより引用
私の子どもが通っている小学校では男の子を「さん」づけで呼んでいる。必ずしも教師全員ではないようだが、印刷物などではすべて男の子も「○○さん」となっている。

 こんなことは一部の小学校だけかと思ってネットで調べてみたらどうやら全国的傾向らしい。いつのまにやら学校は人間を中性化させてしまっているのだ。

~中略~

ジェンダー・フリーを信奉する人たちは男女差と男女差別を混同している。確かに男女差別はいけないが、男女差をなくすことはできないし、それがあるのは当たり前のことだ。

 小学生くらいではまだ男女差は目立たないかもしれない。だからといって男女何もかも一緒くたでよい、というものではないだろう。

 小学生の男の子ならばやっぱり「○○くん」と呼ぶのが適当だ。男の子は○○くん、女の子は○○さん、と呼ぶことが日本の文化とでも言うべきものだ。そこに男女差の意識はあっても男女差別の意識はない。

 男女差別をなくすためにこそ、男女差(=男らしさ女らしさ)をきちんと教えていく必要があるのではないだろうか。男女差をなくすのではなく、区別し理解することが大事なのである。


リンクより引用
~前略~
ジェンダーフリー教育の最大の弊害は、何と言っても子供たちの人格形成に破壊的な影響を及ぼすことである。自我が形成される幼少期から思春期にかけて、男女の区別をしないとアイデンティティーが健全に作られず、場合によっては性同一性障害や同性愛などに陥ってしまう危険が、心理学者などの専門家によって指摘されている。


リンクより引用
~前略~
中学生のころ、家庭科と技術科で男女でわけられてどうして男だから家庭科を習えないのだろう、と不思議に思っていた。しかし最近では男子も家庭科をやり、女子も技術科をやる。これはとてもよいことだと思う。一見逆説的に見えるが、このように男女分け隔てないカリキュラムを組んでこそ、かえって男らしさ、女らしさ、の概念が育つのである。

 こうした教育を受けてこそ、「ああ、自分は男だけどちゃんと家庭科を習って料理とか裁縫とかできるようにしとかにゃいかんのだな」とか、「私は女の子だけど男の人の力仕事にできることは協力しなければ」などと理解できるようになる。その前提としてしつけの段階でしっかりと男らしさ、女らしさの基本を教える必要があるのだ。

 男女が協働する喜びや意義を感じるためにむしろ男らしさ、女らしさの概念が不可欠なのである。

 しつけ段階でこの男らしさ、女らしさ、を無視してしまう、というのは一見進歩的でいいように見えるがかえって男女差をわからなくし、異性に対して不満ばかりもつ男女を育ててしまいかねないような気がする。それに男らしさ、女らしさ、がこの世からなくなっていったらそれはそれは味気ない世の中となってしまうだろう。

 

(トビーフィッシュ)