サルのお母さんから学ぶ子育て

『集団を作るサル類での子育て① 雌の子育てから仲間遊びへ』(69423)、を読んで、改めて人間とそっくりだなあと思いました。そして、観念を持たないサルと、人間の子育てがこれだけそっくりだということは、本能・共認回路と整合しない、旧観念に依拠するところの多い、現在の子育ては大きな問題を孕んでいるとも感じました。

江戸時代後期に日本を訪れた外国人達は、母国に帰って日本の文化を紹介する書籍を書いています。この中で、日本文化に対する評価は異文化に対する異端視や憧れなどさまざまで、これといった共通点がありません。

しかし、江戸時代の子供達の生き生きした生活については、ほとんどの日本紹介書籍で同様にふれられています。赤ちゃんを、裸の背中におんぶしスキンシップを十分に与えていること。西洋のように親の監視がなく、仲間同士で自立なに集団を形成すること。どの親も自分の子供を特別視することなく、他の子供達と同じように子供集団の一員として彼と接すること、などです。

このように個人主義や自由などの観念が広まる前の日本社会では、母親の役割や子供(集団)の役割はサル社会ときわめてにかよったものとして規範化され共認されていたということだ思います。観念のみの規範ではなく、本能・共認回路と直結した規範ゆえ、リアリティがあり、生き生きしていたがゆえに、訪れた西洋人の目に新鮮に映ったのでしょう。

それに対して、親和欠損や親和不足からの囲い込みなど、現代特有の子育て問題を考えるとき、本能・共認と直結しない旧観念の影響の大きさを改めて痛感させられます。たとえば、十分な親和充足を与えられる母親とは、現代的意味での知的といわれる女性とは対極にあると思います。

そして、現代的意味での知的とは、高学歴で、旧観念を信奉し、自由・個人・責任・義務などの言葉を巧みに操るインテリということでしょうか?これらの観念を巧みに操りながら、十分な親和充足を与えられない自分を知らず知らずのうちに正当化して、子供を染脳していくことになります。

これらは、江戸時代の規範からすると、まったく対極にありますが、それらを打ち壊して旧観念を信奉することが、進歩的と思われていたのが、それ以降現代までの一つの流れでした。そして、旧観念はほとんど現実の役に立たなくなり、子育てにはまったく害でしかないことがわかってきた現在、旧観念から自由になった若いお母さん達の、集団での子育てネットワークなども出てきています。

そろそろ、旧観念に依拠した子育て規範から脱皮し、本能・共認回路と整合した子育て規範をみんなが必要とする時代になってきたのだと思います。それを追求することが、先進的という時代に変わってきたのでしょう。






本田真吾