何故仕切られているのか

1950年代中学時代を送った土地は、兵庫県でありながら大阪府の保養所がありました。
そのため、周囲を山に囲まれ、田舎でありながら田んぼは殆ど周辺にはありませんが、各家庭にお風呂が無く、保養所のお客さんの使用後の大浴場を使わせて頂いていました。
夜、20~25軒くらいの家族が一斉にお風呂を使います。
赤ちゃんから年寄りまでそれは賑やかなこと、誰の赤ちゃんでも子供でもお構いなく抱っこしてお風呂にいれ洗って、若い者は年寄りの背中を流しながらお喋りに花が咲き、子供は誰の子でも構わず叱り注意もする、身内や他人などと何の隔たりもせずまさしく大家族でした。

困っているなら助けられ、余力あれば助け、小学生も中学生も赤ちゃんや幼児をお風呂に入れる一人前の期待を感じ、上手くできれば周囲から褒められ喜ばれ、大人からその場の規範を教えられ、みんなの会話から大人の世界を垣間見て、みんなで生きていく社会の仕組みを自然に覚えました。

その後、就職してその土地を去り、両親はその土地で今も生活していますが、保養所に来る人が土地の人をお風呂に入れるのはおかしいと府に申し入れがあったとのことで、お風呂は使えなくなり各家庭は慌ててお風呂を増築しました。

今では、保養所は老人専用の保養所に建て替えられ、子供の頃遊んでいた広場も大きな木の下のお地蔵様もフェンスで囲まれ入れない別世界になりました。

あの頃一緒にお風呂を使った大家族のような仲間の多くが別の地に去り、里帰りしても知らない同士で挨拶も無く素通りする、あの頃の面影は全くなくなりました。

>ロ.肉体破壊・精神破壊と市場の拡大停止    
 
実現論9_2_03   
   だが、肉体破壊よりももっと致命的なのは、精神破壊である。市場の拡大によって、闘争の場(職場)と生殖の場(家庭)が分断されてしまったが、これは実は、生物史上かつて無かった極めて異常な状態である。全ての生物集団は、闘争過程と生殖過程を包摂した全的な集団として存在しており、全ての生物はその中で進化してきた。もちろん人類も、原始時代からずっとそれを踏襲し、闘争と生殖を包摂した全的な集団の中で、今日の人類に進化してきたのである。原始時代だけでなく農業生産の時代もそうであって、例えば農家は、今日の家庭の様な単なる生殖と消費だけの場ではなく、それ自体が一個の生産体であり、従ってそこには、自然圧力をはじめ様々な闘争圧力が働いていた。だから子供たちは、働いている両親の背中を見ているだけで(学校など無くても)、健全に育っていったのである。だが、市場拡大によって職場と家庭が分断され、かつ家庭が絶対不可侵の聖域となった(例えば、よく「企業が悪い」「学校が悪い」と糾弾されるが、「家庭が悪い」と糾弾されることは殆どない)ことによって、家庭には何の圧力も働かなくなり、その結果、家庭は子供を教育する資質をほぼ全面的に喪ってしまった。サラリーマン家庭が孕む教育不能という問題の深刻さは、当分の間は、まだ農家育ちの祖父母や両親が居たお陰で、顕在化してこなかった。しかし、農村から都市への大移動がほぼ終わった'70年以降、その致命的な欠陥が徐々に露呈され始め、とりわけ老人と共に農家時代の諸規範が家庭から消え去った'90年以降、若者たちの間に心の欠陥児が急増し、子供の精神破壊が恐ろしいスピードで進行中である。< 

あの老人専用保養所のフェンスを取っ払って、みんなが交流できる場に何故できないのでしょう。
恐ろしい事件の続発、子供たちの精神破壊を直視すれば、核家庭・託児所・幼稚園・小学校・中学校・老人施設みんな塀に囲んで、隔離施設にすることがおかしいのだと感じるはずですが。






浦野てる代