共同保育の実現は一対家庭の解体過程でもある

白川郷の子育て事例(24993)が示すとおり、共同保育とは母親(子育ての当事者)同士の共同性があって初めて実現されるのだと思います。

共同保育においては、“自分の子”という意識の払拭はもちろんのこと、お乳のあげ方から衛生面に関する配慮までみんなの共認が要となります。自分の子だけ可愛がられていないとか、あの人のやり方は不衛生だといった不協和音(私的判断や排他性)が出ては共同保育は成り立ちません。

しかも乳児の保育は24時間まったなしです。従来のように昼は保育所に預け、夜は家庭で面倒を見るというパターンではなく、公私の別なく母親達の連携が求められます。つまり母親達のつながりは、これまでの家族以上に親密なものになるはずで、従来の家庭という枠を超え出た共同体としての姿が浮かび上がってきます。

そして、その母親達の連携・共同性が生産(闘争)課題を担った共同体(白川郷の場合は村落共同体。現在なら共同企業体がもっとも近いイメージです)に包摂されるに至って、育児不安や仕事と育児の分断という問題も根本から解決されるのだと思います。

このように考えを進めると、従来のような一対家庭という概念そのものが無意味になってしまうことに気づきます。むしろ一対家庭は共同保育にとっては邪魔な存在(私的判断や排他性の土壌)となるでしょう。

家庭がなくなるなんて!?現在の一対家庭という常識からみれば意外かもしれませんが、すでに育児の可能性を家庭の外(=共同性)に見出そうとしているのは密室家庭で閉塞している当の母親自身です。家庭(=生殖過程)のみが単独で存在することはできないという事実。家庭(生殖)と仕事(闘争)の断絶が密室一対家庭の閉塞をもたらしているという事実認識に基いて、彼女達の向かう先に“共同保育”実現の道筋を開いてゆくことが必要なのだと思います。






阿部和雄