「みんなで育てる」を供給側からの視点で考える

> みんなから出てくるのは、子育て不安と役割不安。つまり、精神破壊が進み社会不安が増大する中で子供を育てることの不安、そして子育てをすることで社会と分断されることの不安。<(98313

女の人と子育てについて話をすると、切実な不安を感じているのが伝わってくる。
そこで「みんなで育てる」という話が出ると「それ、いい!」とすごく反応がいい。

しかし、実際のところ「みんなで育てる」はなかなか現実味を帯びてこない。

>「みんなで育てる」には「みんなの子」という意識が不可欠。昔、それが可能だったのは、生産も婚姻も「みんな課題」で、出産⇒子育ては、その延長にあったから。
現在のように、生産は個人課題(私権課題)に矮小化され、結婚は個人の自由に基づいて行われている状態では、目先の合同保育しかできない。<(同上)

「みんなの子」という意識をもつには、何が必要なのか?何が妨げとなっているのか?
そこをはっきり自覚しなければ、いつまでたっても「みんなで育てる」は実現しない。

ところで、「みんなで育てる」ということを考える場合、多くの人(とりわけこれから自分が子供を産もうとしている女性)は、『自分の子をみんなで育ててもらう』こと、つまり自分は需要側の立場にいることを想定しているように思う。

その場合、最大のポイントは「周りがどこまで協力してくれるか」になる。
別に悪いことではないのだが、みんなで育てる基盤がない現在では、見通しがつけられないのが実際のところで、現実にはなかなか難しそう・・・で止まってしまうだろう。

では、発想を変えてみてはどうだろうか。
『自分の子をみんなで育ててもらう』を『他人の子”を“(自分を含む)みんなで育てる』に変えてみるのだ。

そうすると、自分(=育てる側=供給側)がどこに躊躇するのかが鮮明になり、その躊躇こそが「みんなで育てる」の実現を阻むものなのだ。
そして、おそらく最大の躊躇は“家庭に他人が踏み込むべきではない(=自分の家庭へ他人に踏み込まれたくない)”という個的な自由空間への拘りだろう。

子育てにおいて、「みんなで育てる」の重要性は、もはやほとんどの人が顕在意識で自覚している。
そこから実現への歩を進めるには、供給側の視点に立ち、課題を鮮明にして対峙することが不可欠であると思う。





西村秀彦