「農村(ムラ)の幸せ、都会(マチ)の幸せ――家族・職・暮らし――」
(徳野貞雄 著/NHK出版)より
------------------引用開始----------------------
家族と村は選べない。これが共同体の原則です。共同体の原型は家族であり、その延長上に親族があり、近隣社会があって、ムラができているのです。
家族はまた、学校、会社、警察や病院、サークル、NPOと違って目的がよく分かりません。目的が明快でない代わり、やっていることや役割が無限にあります。逆に言うと、役割がたくさんあることから目的が限定できないと言うことです。
(中略)
日本の社会で、現在職業や仕事と言われているものは、実は家族がやっていた役割を専門分業化したものです。これは意外と皆さんが気付いていないことです。
(中略・以下抜粋要約)
家族の持つ機能
1.生産共同の機能(役割)
2.消費共同機能
*家族の中では「私有制」が作動しない事がある。
3.性的欲求充足機能
4.子どもの生殖と養育機能
5.生活拡充機能
6.精神的安定機能
*1~5機能を相互補完しあうとメンバー間に強い絆と安心感をもたらす。別名を「家族の愛情」とか「家族の絆」と呼び、皆さんが大好きなこと。しかし、これは独立しては成立し得ず他の無数の家族機能が働いている所にしか成立できない。
家族機能の一部を外部化しようとしている近大社会・産業社会で、家族の愛を維持していくのは非常に困難です。だからこそ、今、人々は古い家族のにおいが残っている故郷や農村にあこがれているのです。
(中略)
ではなぜ、人々は家を捨て、農業を捨てて、マチに出たのでしょうか。
家族や田舎は愛もあり、安定もしていましたが、悲しいかな、貧しかったのです。
(中略)
学校の役割
産業社会では家族単位で農業をしているよりも、家族やムラから若者をバラバラにして学校に集め直し、(工業製品を)作らせます。そのほうが生産性が高くなるからです。そして、その訓練をする場所が学校です。
社会の近代化と言うのは、家庭の持っていた生産共同機能と生活拡充機能を、製造業やサービス業として専門分化したものとい言えます。そして、この仲介をするのが学校教育だと思ってください。
------------------引用終了----------------------
本源的な集団の原単位を「家族」とみなす所には、若干の違和感を感じますが、日本の近代に至るまでのムラには、文中の1~6で展開する諸機能があり、本源的な集団の単位として成立しえた事には異論がないと思います。
参考:
★実現論9_2_03 闘争過程と生殖過程の分断 実現論
★1449 役割の場の分断=精神の分断→子供への悪影響
★1833、1834 農業・百姓を通して見た現代人
★772 夜這い婚
★1166、1167、1168、1169 夜這い「オコモリ」
市場社会が進むに連れて、単位集団を出れば何をするにもお金がかかる社会(30710)になり、幻想価値のない農業生産(30709)では太刀打ちできなくなって、農村から都会へと大移動しました。
しかし、市場原理に翻弄されて、経済も環境も精神もズタズタ(実現論9_2_01)となってみれば、農業回帰の流れが一気に顕在化するのは、潜在思念が農的暮らし(=ムラ共同体)に本源的な可能性を感じているからなのではないでしょうか?
そして、本来、家庭や共同体の持っていた生産共同機能や生活拡充機能(=育児や教育、福祉、果ては食までも・・・)を外部化してしまったのを、再度取り戻し共同体の中で『仕事化』することで供給者を増やし、自治体の担うべき諸機能については支援金を投入する(198293)などの制度化がなされれば、可能性が拡がっていくように思えます。
何らかの形で各人が農業生産に酌みしながら、先ずは共同体内での自給基盤を作り出し、同時に『農』的活動に集団統合課題としての生活拡充機能を担う労働を組み込むことが考えられます。
家庭内労働の外化といえども、それが氏素性の知れた仲間内でなされるというのがミソ。期待・応合の関係が手に取るように分かるからこそ活力源となる、というのが実感。しかし、これもイントラネットでその規模を大きくできる、という体験からすると、現代はムラの規模を超えていけるかも知れません。
その活動成果に応じた支援金制度なら、座して補助金を貰うより活力が湧くし、皆の共認も得られるというもの。
小圷敏文