育児は育自?

最近、神話にまつわる投稿が多いこの会議室(始原人類)において、淀川さんの「性の独占と集団育児」(5873 )がリストからは異彩を放っているように思い、レスさせて頂きます。

>人間は本来一夫多妻制の生き物で、子どもは複数の女性から生まれた多くの子供と一緒に育てられるのが、自然な姿である、という話を聞いたことがあります

人類の婚姻形態の変遷については、一度「実現論」の第一部を読まれることをお薦めします。性や子育ての問題は始原人類の時代から社会の基幹をなす問題であり、男の独占欲や女の存在不安をどのように制御してきたのかという問題と考えられます。人類は共認充足なしには生きられない存在であり、また観念機能による「心の整理」の仕方も重要な観点であると思います。

現代は母親の育児が問題となっており、特に元々集団課題であった「育児」が個人の、母親1人の課題となってしまいました。育児という概念も改めて考えてみると、初めから育児期間を個人(母親)の責任で行うことを社会通念として前提にしているような概念のようにも思えます。

少し前の新聞記事になりますが、毎日新聞の5月23日の「母(MOTHER)」の特集を参考に考えてみたいと思います。
(~孤独と戸惑いに揺らぐ心--皆で理解し共感して~より抜粋)

少子化、忙しすぎる夫、家庭内離婚と、今の社会には母親が子供に「いい子」を期待してしまう条件がそろっている。母親の中で「子育て」の意味がますます肥大化している。

>NHK教育テレビの育児の特集番組が昨年、「私にとって育児は○○である」という文の「○○」に入れる言葉を尋ねる調査を行った。「柔軟体操」「天国と地獄」など多彩な表現の回答が並ぶ中で、まったく同じ言葉の回答が多数あり、番組スタッフを驚かせた。
 
>それが「育児は育自」「育児は自分の成長」だった。一方で「犠牲」という答えも少なくなかった。番組のプロデューサーは「『育児は犠牲的』という思いがあるから、母親は逆に『育児は育自』と言いたがるのでは」と感じたという。
 
>育児を損得で考え「得してる」という思いにすがりたくなった時、心はもう黄信号なのかもしれない。
 
>母になることが、どうしてこんなに難しいのか。その昔、あたり前のように女性が母であり得たころのことについて考えたりもした。10代半ばに結婚し、4人も5人も子供を産んでいた当時、母になることにためらいはなかったのだろうか。いや、そんな時代は母の心の揺らぎなどそもそも認められなかったに違いない。
 
>良くも悪くも、現代は母をめぐる女性の孤独と戸惑いが共振していると思う。児童虐待摂食障害なども、そんな「振れ」のひとつなのかもしれない。
 
>母を再定義し、母になることの難しさを理解し、共感し合うこと。母だけを追い詰めないこと。みんなで考えたいと思う。もちろん、男性のあなたも。 

私も、少しでも共感できるように考えて見ようと思います。「育児は犠牲的」であるからこそ「育児は育自」と言いたがると番組のプロデューサーは分析していますが、果たして本当なのでしょうか。わたしには自分を(女を)磨く(育てる・鍛える)ための育児という心の整理の仕方が、不自然に思えてなりません。

「育児は育自」という損得勘定が心の黄信号とは、観念で整理することができずに心が揺れている状態であり、個人主義思想ではもはや心の充足は得られないことを物語っているのではないでしょうか。社会的にも閉ざされた、集団から孤立した、自身の存在不安は消えてなくなることなどないはずです。

不全状態から心の安定・充足を願う母親達が「本音で語り合う場」が必要であり、そこで抽出された問題点を解決する仕組みを考えることが男達の役割なのだろうと思います。一対一の取材では限界があり、子育てサークルだけでも限界があり、社会の根幹を成す男と女の集団課題であると改めて思いました。

女性には大変失礼ですが、上記の記事の中で、「女が1人で考えることほど黄信号なことはない」というのは正しいと思います。

 

 

橋口健一