「感覚育ては言葉育てから」

人間は「生命の内側にあるもの」が、「生命の外側にあるもの」(他者)と対話しながら、自分が生きている世界のことや、自分自身のことを学び、成長するように出来ています。

その基本は「自己学習」であって、他者からの「教育」によるものではありません。

それが「成長」の基本原理です。

 「言葉」や「感覚の働き」はその「対話」のためのツールとして存在しています。

その時周囲の大人たちに出来るのは、環境を整えたり、直接的、間接的な働きかけを通して気づきを促し、その「自己学習」を支えてあげることだけです。

 子どもが必要としていない知識などを一方的に教え込もうとすると、子どもは自己学習への意欲を失い、大人の評価を気にするようになり、「生命の内側にあるもの」を成長させる能力が低下します。

でも、「大人に都合の良い子ども」を育てたいだけなら「対話を通しての学び」は必要がありません。

 「成長する喜び」の代わりに「評価を得る喜び」を子どもに与えれば、子どもは「大人が教えたいこと」を学ぶようになります。

でも、それと同時に、「他者との対話」をやめてしまいます。必要がなくなってしまうからです。

そのような状態になると、必然的に「感覚の働き」も鈍くなります。
 医学的な面での「五感の働き」が異常になるわけではないのですが、「五感の働きと心とのつながり」が弱くなり、見ても学べず、聞いても学べない状態になってしまうのです。

 子どもでも大人でも、そのような状態になってしまっている人は、「見て」評価し、「聞いて」評価するばかりです。

 私は自宅では造形教室をやっているのですが、子どもが「○○を作りたい」ということをよく言ってきます。

それで以前、他の子や私や家内が作ったその「○○」がある場合はそれを見せて、「これを見てどう作ったらいいか考えて見て」というのですが、それで分かる子と、全く分からない子がいます。

そして、分からない子の方が多いです。

ヒモの結び方や、輪ゴムのつなげ方を教えるときも目の前でやってみせるのですが、まるで手品を見ているかのような状態の子が多いのです。

コマのヒモの巻き方や回し方も、何回も目の前でやって見せても理解出来ず、すぐに諦める子がいっぱいいます。

 今の子は、昔の子に比べて明らかに「見て学ぶ能力」や「聞いて学ぶ能力」は低下しているようです。

うちの教室には「おヒマな子」用に「知恵の輪」も置いてありますが、多くの子がデタラメに動かすだけですぐに諦めます。

この、「見て学ぶ能力」「聞いて学ぶ」能力は、暗記が中心の「学校でのお勉強」には直接必要がありません。だから大切にされていないのでしょうが、でも、学校の外や社会に出てからは絶対的に必要になるのです。

でもその一方で、数は少ないですが、こういうことが普通に出来る子もいます。

そういう子に共通しているのは、「対話が出来る」ということです。「対話が出来る」なんて当たり前のように思われるかも知れませんが、最近では、その当たり前のことが困難な子が多いのです。

 一方的に話すことは出来るのですが、相手の言葉を聞こうとする気持ちや、聞いて理解する能力が低いので、対話が困難になってしまうのです。

 皆さんはお子さんとちゃんとした対話をしていますか。
 子どもはお母さんや家族の間での対話を通して「対話の能力」を育てています。
ですから、家族の中で対話がなければ子どもは「対話する能力」を育てることが出来ません。

そして、「対話の能力」が低い子は仲間と助け合って遊ぶことも出来ません。創造的な活動も困難です。「心とつながった感覚の働き」も鈍くなります。

ちなみに、「ああしなさい」、「こうしなさい」、「学校はどうだった」、「勉強はしたの」などというような、「言いたいこと」だけをいい、「聞きたいこと」だけを聞くような言葉のやりとりは「対話」とは呼びません。

実は、「言葉による対話の能力の育ち」と、「感覚の働きを通しての対話の能力の育ち」は密接につながっているのです。

だから、もし子どもの「感覚の働き」を育てたいと思うのならば、「言葉での対話」も大切にする必要があるのです。

 本来「言葉」は「感覚」の集合体だからです。

   今日の空は青いね。
   富士山は真っ白だね。
   どこかに遊びに行きたいね。
   何して遊ぼうか。

これらの言葉はみんな「感覚のやりとり」でもあるのです。 

リンクより



井垣義稀