「追求」と「遊び」は一体。境界線のない子どもに学んでいく。

本来、子どもにとって「追求」と「遊び」は一体。
大人になって気付く窮屈な線引きの一つ。
遊びの中で育む追求心を大人は無意識に線引きしていることを自覚し、子供に学んでいきたい。

「おもちゃ」と「おもちゃじゃないもの」の 境界線ってどこだろう?(リンク)より引用

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いま、世の中にはモノが溢れているけれど、子どもたちが遊ぶ「おもちゃ」は増えているのだろうか。 
それとも減っているのだろうか。 

そもそもおもちゃは、どこから“おもちゃ”で、どこからが“おもちゃじゃないもの”なのだろう。 

子どもの近くにいると、その境目がわからなくなってくる。

●おもちゃじゃないものが、おもちゃになるとき
3歳のさくちゃんが、公園の真ん中にそびえたつ街灯柱を見ている。 

しかし彼が本当に見ているのは街灯ではなく、柱の下にある、大人なら見落としてしまいそうな“小さな穴”のようだ。

「あながあいてるね」とつぶやきながら、さくちゃんは落ちていた木の枝を拾い、そっと穴に突っ込んでみる。 

枝は短いので、穴の中にすっと消えてしまった。 

「はいっちゃった」さくちゃんはそう言いながらまた、木の枝を拾う。今度は長い枝だ。 

するとその枝は穴の中に落ちていかない。 

いくら突っ込んでも穴の中に落ちない枝を横目に、さくちゃんは再び周りを見渡し、短い枝や小石を拾っては、順番に穴に落とし始めた。 

***

それは、さくちゃんにとって、街灯柱の下にある小さな穴がおもちゃになっていく瞬間だった。 

これは入る、これは入らない。 
なぜ入るのか、なぜ入らないのか。 

わたしには、さくちゃんの集中する姿が、言葉をかけるのがもったいないほど輝いて見えた。 

こういうとき、大人たちはどう接したらいいのか。 

「それはおもちゃじゃないから、遊んじゃだめ」、「あっちのすべり台で遊ぼうよ」と言うのが正しいだろうか。大人目線のルールを考えれば、そうかもしれない。

さくちゃんがふと、私の顔を見る。 
集中力がふっと切れたような瞬間だった。 

「ここに入っちゃった枝は、どうやって出せばいいんだろうね」と私がつぶやくと、「もうとれないよ」と彼は、そんなことわかっている、というような口調で言った。 

「じゃあ、枝や石が、この中にどんどんたまっていくのかな」 

さくちゃんは、少し何かを考えたような顔をしたが、その質問には返事をせず、長い枝を持ってそこを離れていく。後ろ姿が、妙に清々しい。

●大人がつくる、おもちゃにまつわる境界線

1歳くらいの子どもたちに人気のおもちゃで、「ぽっとん落とし」というものがある。

今考えると、さくちゃんが興味を示した街灯柱の穴は、このぽっとん落としに似ているかもしれない。 

私も子どもだった頃よく遊んだ記憶があるが、この「モノを落とす」という行為を楽しんでいる子どもの姿に気づいた大人が、それを「おもちゃ」という形で提供したのだろうか。街灯柱とは違って、繰り返し何度も遊べるように。 

さくちゃんが過去にぽっとん落としを経験したのかどうかは定かではないけれど、街灯柱で遊んでいた時にそれが「おもちゃ」なのか「おもちゃじゃないもの」なのかを、たぶん彼は意識していなかっただろう。 

しかし、そんなさくちゃんと対照的に、大人はすぐに、遊ぶもののなかに境界線を作ってしまっているような気がする。 

「これはおもちゃで、これはおもちゃじゃない。 このおもちゃはこうやって遊ぶもの、こういう風には遊ばない。」…というように。 

「今自分が心から楽しんでいること」を認めてもらえるかどうかが、子どもたちの遊びの幅を広げていく鍵になるのではないかと思うのだが、こんな時、「街灯柱じゃなくて、帰ってからぽっとん落としで遊ぼう」と言ってしまったら、子どもの心はどうなるのだろう。

もちろん、おもちゃでしかできないことと、おもちゃではできないこと、決められた遊びかたの中で得られる面白さのようなものは、存在すると思う。 

だからこそ私は、子どもが手に取るものがおもちゃであってもそうでなくても、丁寧に見ていきたい。 

子どもよりも経験と知識がある大人は、「それはそうやってあそぶものではない。なぜなら…」と、教えたくなるかもしれない。でも大人たちがすべきことは、喜びや発見を禁止することでも、すぐに答えを教える事でもないのではないか。 

境界線を超えて、自分で体験して気づきのある時間を、ともに過ごすことができれば幸せなことだと思う。

~中略~

●子どもにはわかる、世のすべてのあそびかた

世の中には、おもちゃに見えなくても、おもちゃになるものがたくさんある。大人にはそれがわからなくても、子どもにはわかる。 

知識として「これはおもちゃじゃないもの」と知っていても、「これって、どうやって遊ぶと楽しいの?」と問いかけてみれば、子どもは私たちが知る何倍もの種類のあそびを、教えてくれるだろう。 

だから戸外に落ちているビールの空き缶や、ただの街灯や、変色した雑草や、犬のうんこなどが子どもの興味を引きつけたところで、私たち大人にはそれを止める権利はない。忘れかけていた好奇心を、思い出させてもらっていることを感謝したい。 

一見おもちゃではないもので散々遊び尽くした子どもたちは、やがてすぐに、おもちゃ屋さんのおもちゃに興味を持ち始めることもあるだろう。 
もちろんそれでも良い。 

そういう子どもたちの遊び方は、それが「おもちゃ」であろうとなかろうと、幅広く、豊かなのではないかなと私は思うのだ。 

子どもたちのあそびの世界が、様々なおもちゃによって、これからも広がり続けますように。

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匿名希望